2017年7月22日土曜日

イヤホンの悩み

1.ラジオのイヤホン 

私は夜、床にはいって眠りにつく前のひととき、あるいは夜中に目覚めて眠れぬときなど、子守歌がわりにラジオを聞いて過ごす。  だが数年前まで、そのラジオを聞くのがたやすくはなかった。放送がうまくはいらんのである。なんでも、私の住んでいるこのあたりの電波事情の関係で、あまたあるラジオ局のうち良好に聞けるのは1局のみ。あと1局も雑音が入らないようにして聞くにはちょいとコツがいる。
まず、イヤホンを差し込んだラジオを手で持ち、空中でラジオを動かしながら聞こえる場所を探るのだ。

もしうまくはいったら、今度はその地点を逃さぬようピンと張ったイヤホンコードの張りを保ちつつラジオを持ち上げ続けるのである。さすればその間だけは心地よくラジオにありつけるという段取り。



さて、これが寝る前の覚醒しているときであればこそ、しっかりとした手つきでイヤホンコードも操れるのだが、夜中に目覚めてしまったときのラジオとなると、ちとやっかい。暗い中、もうろうとしたノーミソ状態でイヤホンのありかをまさぐり、聴取可能な地点を探して夢遊病者のごとくさまようことになる。 となると、ラジオは寝るための穏やかな気持ちを誘うどころか、ラジオを聞こうとすればするほど目が冴え渡り澄み渡るわけで、なんともはや。

2.タブレット時代 

その後、タブレットなるものを入手。これがまことに快適至極なお道具。無線LANのおかげでコード不要。しかも日本国内のみならず海外の放送局までも選べる優れもの。モンゴル語の歌で眠りにつけたりもするんである。

 とはいえ、ちょいと問題が。横向きに寝るとイヤホンの突起が枕に押され、耳の穴にあたってどうにも痛い。そこで、枕を少々くぼませ、そのくぼ地に耳を入れてみたら、あーら、だいぶと楽ちん。蕎麦殻枕ならではの解決策でありましょう。  


 
おっと、もう一つ悩ましきは、イヤホンコードですな。これが寝てる間に髪に絡まるやら、首をしめるやら。ときにはイヤホンの突起が耳からはずれ、ピップエレキバンのごとく首筋や背中や頭にぐりぐりぐり。指圧跡までくっきりと残す始末。

また、突起に取り替えカバーがついているタイプを使用していたときなど、どうも今日は聞こえが悪いと思ったら、はずれたカバーを耳に入れたまま外出してしまったこともありましたわい。 



 
 それにしても、ラジオが聞けるというのはありがたい。ラジオもエアコンも網戸もなかった頃。

夏の夜の暑さにたまらず布団から這い出し、窓から顔だけ出して寝ておりました。蚊取り線香にいぶされて咳き込み、朝日が顔面を直撃してましたもの。(記:2014年8月29日)






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2017年7月20日木曜日

初めて見るもの 食べるもの



実家の母へうちのベランダでとれたナスをお土産に持っていったときのこと。しま模様のナスのカプリスと、ぽってりした薄紫のナスのロッサビアンコを取り出してみせるやいなや、「なんときれいだこと。こんなの、見たことない!」と感嘆。だが、

母「これなんなの?」
私「ナスだよ。イタリアの在来種だって。」
母「いいや、ナスでないっ。ナスは茄子紺といって紺色なんだもの。こんなのはナスではない。」ときっぱり申して、ちっとも引かぬ。
あげく、「こんな色は毒々しい」とか、「つやつやしてるのが変だ」とかのたまふ。私が「焼きナスにして食べたら、とろっとして美味しいよ」と進言しても、「いいから、いいから」と押しもどし、頑として受け入れんのだ。

しかし、これほど反論しておきながら母はなぜか、しましまカプリス2個を手に持ち、曲がった腰でトコトコと仏壇に運んで行ってしまった。そういえば、なんでも仏壇にあげる家である。通知表、写生した絵、免許証などなど。いつぞや、私が発泡スチロールで作った水の分子模型でさえも、土産の青梅煎餅と一緒に並べてましたからなあ。無神論の象徴みたいな分子模型と仏壇との妙な取り合わせに、ぶふふと吹き出したことを思い出す。

それにしても、なにゆえカプリスだけ仏壇で、ロッサビアンコはテーブルの上においたままなのか。この選択っぷりが謎である。

 食事どきになり、私が台所で味噌汁を作っていると母が、「ここのナスも入れたらどう」といって、あの置き去りにされたロッサビアンコを指さしている。

なんたるもったいない仕打ち! 私は、内心怒り爆発。こともあろうに、そのへんに売っておらん貴重なイタリアンナスのロッサビアンコ様を、味噌汁のようなごった煮に投入するなどもってのほかじゃ。このナス様は、ナス様オンリーで、だいじに優しくなでるようにステーキにしていただくような高貴なお方であるぞ。と、申し述べたい気持ちをぐっとしまい込み、小さく切ってニンジンやらジャガイモやらと一緒くたにして汁椀に盛りつけてやった。ともかくも食べてもらわねば。食べれば、なあんだと思ってもらえるのだ、といいきかせて。

こうなるともはや、ロッサビアンコの汚名を晴らすといいますか、イタリアンナスの普及大使、あるいは新商品のプレゼン屋さんですな、あたしゃ。
母がお椀のナスに箸をつけるのを、横目でちらちら確かめるわたくし。
母「あら~、柔らかいんだねえ、このナス。とけてしまいそうだよ。これならもっと後から入れてもよかったねえ」ですと。はいはい、なんとか無事第一関門突破。

 そうなんだ。新しいものを受け入れるというのは容易ではないのだ。だって、一番最初にナマコやゴーヤを食べた人はすごいと思うもの。
まてよ。ちょいと予想がつきましたぞ。ロッサビアンコは母にとって、ナスとしてまだ認められる範囲だから食べてみてもいいと思ったにそういない。しかし、しましまのカプリスはどうにも納得がいかんから、とりあえず仏壇において食べるかどうかを棚上げにしているのにちがいない。第二関門は、カプリスなのだ。

 そして母は、仏壇の前を通るたびに立ち止まり、あやしげ色のカプリスを見上げ、「しかし、不思議なものがあるもんだ」とか、「もう少し眺めたいから、ここにおいとく」とかぶつぶつ言うのである。
おーい、かあさん、早いこと食べとくれ。腐っちまいますがな、もう。 (記:2015年9月16日)

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